患者さんに対する増田進の姿勢はとても勉強になる。つねに笑顔で、何らかの方法で患者さんと触れ合おうとする。「痛いよな」「つらいよな」など、患者さんの置かれた状況に時折共感する。病は、治療で治らない場合もある。そんなときも、みごとに患者さんに寄り添おうとしている。それぞれの地域の特質性に合わせつつ、医療の原点である患者さんとの一対一の関係を、80歳を過ぎた今もみごとに展開しようとしている。医療の原点がここに見える。「増田進はやっぱり神様だ」と、この映画を見て、あらためて思った。

鎌田實(医師・作家)

死に方も、生き方も、様々になっています。医療技術はまだまだ進化を遂げるだろうけれども、増田医師の続けて来られたような、苦痛の瞬間以外の場面でも日常的につながっている医療の豊かさが、こうして若い世代にも見直されています。老いや病とともにあるべきものは、先進的な技術か、それとも肌に触れられ、話に耳を傾けてもらうことなのか。その価値観は、私たちが老いを迎える頃には、180度変わっているかも知れないなと思います

西川美和(映画監督)

「人を診る」という「当たり前」のこと(抜粋)


都鳥兄弟は、私と同郷、岩手県北上市出身である。彼らは一貫して、みちのくを、あるいは岩手を舞台とした映画作品を作り続けてきた。本作は彼らの作品歴の中でも、もっとも私の個人史に関わりの多い作品だ。
なんといっても私はかつて、増田進先生が副院長を務められていた当時の沢内病院に入院したことがあるのだ。……教師だった母親が沢内中学校にしばらく勤務していたこともあって、我が家は沢内村とは縁が深い。実は私が筑波大学の医学生だった当時、増田先生を尊敬していた親のつてで、先生と面会したこともある。
さて、沢内村といえば、深沢晟雄村長の尽力で、老人医療費無料化と乳児死亡率ゼロを全国に先駆けて達成した村としてあまりにも有名だ。このあたり、詳細は菊地武雄『自分たちで生命を守った村』(岩波書店)や及川和男『村長ありき-沢内村 深沢晟雄の生涯』(新潮社)などを参照されたい。
増田先生は、一九六三年にこの村に赴任し、村の健康管理課長を兼任しつつ 医療・介護・保健活動を一体化させた 「沢内方式」 を完成させた。医療費の伸びを抑えながら村民の健康を守った業績は、地域医療史に残る金字塔として讃えられている。
本作はそんな増田先生の「今」をいきいきと伝えてくれる。
なぜこのような形の診療を続けているのか。増田先生の自伝的著作『森の診療所の終の医療』(講談社)を併せて読めば、そのあたりがもう少しクリアに見えてくる。……緑陰診療所には、レントゲンもCTもない。簡単な処置の道具があるだけだ。その代わり、増田先生は治療に鍼を使う。鍼を使うとき、先生はていねいに患者さんの身体に触れていく。治療を「手当て」と呼ぶように、触診はもともと診察の要なのだ。………
そう、先生はよくある「カリスマ名医」などではない。ただ、医療は人間をまるごと相手取った営みであるという「当たり前」のことを、たゆまぬ実践によって私たちに教えてくれる。こうした「高度な平凡性」を医学が忘れてしまわないためにも、私たちは増田先生の志を受け継いでいかなければなるまい。

斎藤 環(精神科医・筑波大学教授)

1961年、岩手県北上市生まれ。
1990年、筑波大学医学専門額群環境生態学卒業。医学博士。爽風会佐々木病院精神科診療部長を経て、筑波大学社会精神保健学教授。専門は思春期・青年期の精神病理、および病跡額。主な著書に『文脈病』(青土社)、『社会的ひきこもり』(PHP新書)、『被災した時間3.11が問いかけているもの』(中公新書)『原発依存の精神構造』(新潮社)、『承認をめぐる病』(日本評論社)、『ヤンキー化する日本』(角川書店)、『猫はなぜ二次元に対抗できる唯一の三次元なのか』(青土社)、『ビブリオパイカ』(日本評論社)などがある。