映画の概要

戦争で失われたすべての「いのち」について考え、
「生きる」という意味をかみしめたい―――

静岡県に住む、鈴木基之さん(87歳)は、2001年(平成13年)から23年にわたり、戦没者遺骨収集の実情を伝える『生きたくても生きられなかったいのちの写真パネル展』を続けてきた。
2024年8月に78回を数えたこのパネル展で飾られているのは、鈴木さん自身が戦没者遺骨収集に携わったご遺族を訪ね歩き、集めた写真である。ご遺族の方々は「二度と同じ悲劇が繰り返されないために―――」という想いを込めて、鈴木さんに写真を託した。
鈴木さん自身もマリアナ諸島の玉砕で父を亡くした遺族の一人であり、この写真パネル展を通し、海外戦跡地に残されたままになっている遺骨が語る「戦没者の無言の叫び」を伝え、戦争の真の姿を訴え続けている。
今、戦後80年という歳月が過ぎ、忘れ去られようとしている“戦争”の記憶をどのように継承していくのかが問われている。
この映画は、鈴木基之さんの活動と人生を紐解くことで、戦争のない社会を作るために、何が必要かを思索するドキュメンタリーである。

戦地に出向いた兵士たちに目を向けることで
描けることがあるのではないか……

この映画を製作したのは岩手県北上市在住の都鳥拓也・伸也兄弟。二人は『戦争の足跡を追って 北上・和賀の十五年戦争』(2022年)や、『廃墟と化した鉄の町 釜石艦砲射撃の記録』(2023年)で戦争を見つめてきたドキュメンタリー作家である。鈴木さんの友人・芳賀庸子さんに本作の映画化を相談された都鳥兄弟は、「戦地に出向いた兵士たちに目を向けることで描けることがあるのではないか」と製作を決意した。

「生きたくても生きられなかったいのちの写真パネル展」

「生きたくても生きられなかったいのちの写真パネル展」は、鈴木基之さんにより、2001年から2024年までの間にコロナ禍での中断を挟みながら、78回にわたって開催されてきました。このパネル展は国が行っている戦没者遺骨収集事業に参加したご遺族の方々からアルバムを借り、鈴木さんが独自に、年度や地域別に1枚のパネルにまとめて展示しています。このパネルを見た一人一人が自由な発想で判断し、いのち・戦争・平和などを考えるきっかけになってほしい、と鈴木さんは考えています。

鈴木基之さん

十五年戦争と戦没者の遺骨について

1931年9月18日、関東軍(日本軍)参謀らは柳条湖において、南満州鉄道の線路を爆破。中国軍のしわざとして、これを口実に軍事行動を開始し、満州事変が始まった。
1937年7月7日、盧溝橋において日中両軍の衝突事件が発生し、中国各地へと戦線が広がっていく。
1939年9月、ドイツがポーランドに宣戦布告。それに対し、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告し、第2次世界大戦が始まる。
1940年、ドイツがパリを占領すると日本陸軍を中心に対米英戦を覚悟し、日本国内にドイツと結んで東南アジアに進出しようという空気が急速に高まっていく。
9月になると中国を支援していた米英の援助ルートを遮断し、ドイツに占領されていたフランスに余裕がないことに乗じて、フランス領インドシナ北部への進駐を開始した。
日本は、ほぼ同時に日独伊三国同盟を締結。これはアメリカを仮想敵とする攻守同盟だった。
1941年4月、日ソは中立条約を締結。
その直後、ドイツは独ソ不可侵条約を破棄し、6月にソ連に侵攻した。
これを機に、日本は日露戦争以来の仮想敵であるソ連と戦う準備を始めることになる。
1941年7月、日本軍はフランス領インドシナ南部への進駐を開始。
脅威を感じたアメリカは日本の東南アジア進出を抑止するため、対日石油禁輸措置などの経済制裁を加えた。これに日本軍部は危機感を募らせていった。

1941年12月8日、日本時間午前1時30分に日本陸軍がマレー半島に上陸。日本時間午前3時25分に海軍がハワイ真珠湾に奇襲攻撃を開始した。

開戦当初、日本軍は快進撃を続け、占領地を拡大していった。しかし、真珠湾攻撃ではアメリカ軍の空母はすべて取り逃がしていたし、フィリピン・マニラへの空襲が成功したのも、アメリカ軍が準備していない寝込みを襲ったからに過ぎなかった。
この頃、イギリスはドイツの上陸作戦の危機に直面しており、東南アジアまで目を向ける余裕はなかった。その点において、日本軍の勝利は当然であった。
勢いに乗った日本軍は、東南アジア全域、オーストラリアなどへと進攻作戦を計画、実行する。
だが、日本陸軍では作戦遂行のために不可欠の交通と補給が軽視されていたため、大多数の将兵を無謀な餓死に追い込む結果となった。
そして、1942年6月のミッドウェー海戦で敗戦。制海権を失うことになるが、軍部はこの敗戦を隠蔽。以後、大本営は国民に対し、虚偽の発表を繰り返すことになった。
その後、連合国軍の反撃が進み、1944年7月、サイパン陥落。1945年6月、沖縄戦敗北。
同年8月、ソ連の参戦によって和平工作の相手を失った日本は、国体護持を前提にポツダム宣言を受諾。8月14日に無条件降伏を決定した。

この戦争における日本人の戦没者数は、軍人・軍属・准軍属230万人、外地での戦没一般邦人30万人、内地での戦災者50万人。
日本軍戦没者の過半数が戦闘行動による死者ではなく、餓死、戦病死であり、餓死、戦病死者の数は戦死、戦傷死の数を上回っていた。

そして、戦後80年を迎える今でも、戦地となった国々には100万柱以上の戦没者の遺骨が残されている。