この映画で描かれる主な要素

7000通の軍事郵便と高橋峯次郎
~平和を伝える場所・北上平和記念展示館~

1967年、岩手県北上市和賀町藤根で7000通以上の軍事郵便が発見されました。
これは、この地域で長年、教師を務めた高橋峯次郎さんに教え子たちから送られた手紙でした。
峯次郎さんは心身ともにたくましい子どもを育てるという信念から藤根少年団(ボーイスカウト)を創設するなど、健康で強い兵隊を育てるため、熱心に教育に当たった人です。
出征した教え子たちに向けては、郷土通信『眞友』を作成し、郷土の情報を伝え続けていました。この7000通以上の軍事郵便は、この『眞友』を介しての教え子と恩師のやりとりの記録でもあります。
峯次郎さんは、敗戦後、亡くなった教え子たちの鎮魂の想いを込めて、平和観音堂を建立しました。
出征兵士から峯次郎さんに送られた7000通以上の軍事郵便は、現在、北上市和賀町藤根にある北上平和記念展示館に保管されています。この館内には、軍事郵便はもとより、銃・衣服・教科書などの戦時資料約400点も展示されており、県内外からも見学者が訪れています。
映画では、北上平和記念展示館の川島茂裕さんの研究をもとに兵士たちからの手紙や、資料から、当時の様子や峯次郎さんの想いや兵士たちの想いを紐解いていきます。

岩手陸軍飛行場

北上市和賀町後藤野には岩手陸軍飛行場がありました。ここは日本一の広さを持つ飛行場として、1937年に建設計画が始まり、翌年、昭和天皇の弟宮である秩父宮を迎えて献納式が盛大に行われました。この飛行場は出征中の兵士への励ましとなりました。
しかし、日中戦争が泥沼化する中、東北の地まで航空隊を派遣する余裕は陸軍にはなく、しばらくは熊谷飛行学校の夏季演習や卒業期の遠距離飛行で使用される程度でした。
1943年特攻戦術が採用されると、大量の操縦者養成が始まり、1944年には、岩手陸軍飛行場は教育訓練用飛行場となりました。
1945年に入ると全国の飛行学校は改変され教導飛行師団が新編成され、岩手陸軍飛行場でも夜間を中心とする特攻の訓練が行われるようになりました。
そして、1945日、岩手陸軍飛行場は朝から米軍の空襲を受け、滑走路は穴だらけになったと言います。
その日の夕刻、陸軍特別攻撃隊「神鷲第ニ五五隊」名のうち名が釜石沖の米機動部隊に向けて出撃。うち名は機体の不良で帰還。名は米機動部隊を発見できず帰還途中で無念の戦死を遂げました。
敗戦後、盛岡に進駐した米軍の武器兵器処理班が岩手陸軍飛行場にやってきて、残っていた10機ほどの使用不能の飛行機を焼却処分。飛行場の跡地はその後、食糧増産のための開拓地となりました。現在、飛行場の跡地は、近代的な建物が並ぶ工業団地となっています。
映画では、『後藤野 -最北の特攻出撃基地-』(1995)の著者である加藤昭雄さんとともに岩手陸軍飛行場の痕跡を追います。

国産軽銀岩手工場

時代が大正から昭和に変わる頃、世界の軍備は飛行機の時代を迎え、アルミニウムの需要が急激に高まります。しかし、アルミニウムの原鉱石であるボーキサイトは、日本ではまったく産出されず、国産化は不可能と言われてきました。
しかし、和賀郡更木村(現・北上市)出身の福盛田実さんが、黒沢尻町北部一帯の黄褐色の土が、アルミニウム分の多い、珪酸ばん土であることに着目。この発見により、1935年頃から国産のアルミニウムを製造しようという動きが現実化してきました。
そして、1937年には、「国産軽銀工業株式会社」が正式発足し、その岩手工場が今の北上市常盤台に設立されました。岩手県内では釜石製鉄所と国産軽銀岩手工場が最初の軍需工場に指定され、軍の期待も大きく、地域住民も大きな期待を寄せていたと言います。その証拠に1943年に東久邇宮(皇族の防衛総司令官)が、1944年1130日には、首相を辞したばかりの東條英機(陸軍大将)が視察に訪れています。
しかし、珪酸ばん土からアルミニウムの第一次産品であるアルミナを摘出する技術は、工場生産の段階では困難を極め、敗戦までの年間でわずか500トン程のアルミナを生産したにすぎませんでした。
その後、この工場は岩手陸軍飛行場が空襲を受けた翌日の194510日に米軍の空襲を受け、名の従業員が犠牲となりました。  
映画では、当時、工場で働いていた方々のインタビューを行っています。今はもう90代となった方々の証言は当時を知るための貴重な記録です。

北上の戦争遺産
~war monument historyの提唱~

北上平和記念展示館の研究員・川島茂裕さんは、古文書でもなく、オーラルヒストリーでもない戦争遺産による歴史「war monument history」を提唱しています。
敗戦前、戦意高揚に使われたものは、戦後、平和志向の中で忌避されてきましたが、今となっては戦争史料として貴重な存在です。北上には、敗戦後、GHQの命令で破壊された奉安殿が残されている地域がつあるほか、戦前・戦中の様子を感じることが出来る石造物(金石文、記念碑)、などがたくさん残っています。
映画では、川島さんの解説でこのような戦争遺産をたどり、戦争とは何だったのかをみつめていきます。

映画に描かれるのはこれだけではありません。『石ころに語る母たち』のワンエピソードに登場する母の想いを受け継ぐ活動をする女性たちや釜石の艦砲射撃についてなど、私たちは、このほかにも様々な要素を取材し、充実した内容の映画を製作したいと考えております。