▶︎釜石艦砲射撃について

写真提供:釜石市郷土資料館

1945年7月14日 第一回目の艦砲射撃

 釜石はアジア・大平洋戦争当時、東北で唯一製鉄所を持つ軍需都市であり、その中心である日本製鉄株式会社釜石製鉄所は米軍の攻撃目標となっていました。
 釜石市では大規模な空襲を想定し、各地に監視硝が配置され、高射砲連帯が駐屯していたと言います。
 1945年7月14日、米軍艦隊により、釜石市に第一回目の艦砲射撃が行われます。
 砲撃は正午過ぎの12時10分に始まりました。
 このときは、製鉄所を中心に砲撃が集中し、鈴子・只越地区、嬉石・松原地区などが大きな被害を受けます。
 防空壕に避難した市民の中には砲弾の破片や爆風による死傷者や壕の崩壊による圧死者が相次いだほか、火災も発生し、町は焼け野原と化しました。
 そのとき米艦隊から撃ち込まれた砲弾は2560発と言われています。
 この日は、艦砲射撃の直前に艦載機によって、釜石の北隣にある鵜住居村(現・釜石市)が空襲され、1名の死者を出しました。

1945年8月9日 第二回目の艦砲射撃

 盛岡の工兵隊も加わった昼夜問わずの復旧工事により、釜石製鉄所は第一回目の艦砲射撃からわずか三週間で高炉の火入れをするまでに製鉄所を復旧することが出来ました。
 しかし、丸鋼の圧延も再開され、正に製鉄所の再開の日となるはずだった8月9日、釜石市は、悲劇に見舞われることになります。
 再度やってきた米英艦隊により、二度目の艦砲射撃が行われたのです。
 この砲撃では製鉄所のほか、中妻、小川・小佐野の住宅街などが被害を受け、多くの住民が犠牲となりました。
 また、一回目の艦砲射撃では被害が少なかった大渡・東前近辺が火災により焼失しました。
 二度目の艦砲射撃で撃ち込まれた砲弾は2781発。釜石製鉄所はこれにより、完全に破壊され、機能停止に陥りました。
 この日は釜石の南隣の唐丹村も艦載機による空襲を受け、3名の犠牲者を出しました。

写真提供:釜石市郷土資料館

写真提供:釜石市郷土資料館